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階段落ち
私はよく転びます。
もう、歩いてるのと転んでるのが五分五分な感じに。
足が、もう、常に、もつれているんですね。
その日私は疲れていました。
ええ、とっても。
看護学校二年の初夏でした。
その頃学校では『生命活動』という授業があり、身体の一部について研究レポートを卒論並に書かなくてはなりませんでした。
ちなみに私は『脳班』。
とりあえず、レポートの締め切りは間近で、私の鞄の中は、脳関係の分厚い書物が6冊と、レポートに貼る前頭葉や海馬、小脳などの脳の切り抜きと、出来上がったレポート数百ページでかなり重くなっていました。
どのくらい重いかっていうと、もう鞄のヒモはさっきの乗り換えの駅で、とうに切れていました。
私は一つの鞄を肩にかけ、切れた鞄は両手に抱えながら、学校へ向かいました。
次の電車に乗り込むべく駅の階段を降りていた時、私は多分、疲労と重みで超虚ろ状態でした。
そんな時、無情にも電車発車のベルが鳴ったのです。
私はハッとして走り出しました。
その時、私は階段の一番上から三段くらいだけ降りたあたりにいました。
私はミュールを履いてました。
今日は春もののワンピースで、やっぱりそれにはちょっとヒールの高いミュールしかありませんでした。
どんなに状況でも、やはりお洒落は必要です。
で、私は見事に想像通り、題名通り、予想通り、転ぶわけであります。
コロッとね。
しかし私は結構運動神経に自信があり、反射神経もお手のもので、何より転び慣れているおかげで、こういう時の対処は幸い慣れていました。
その上、普段の行いから学んでいる私は、このような危ない階段を降りる時は必ず手すりの近くを降りるようにしています。
だから、安心とばかりに、私は手すりを掴んで体制を立て直そうとしました。
あ
鞄抱えてたの忘れてた。
そう、私は両手に鞄を抱えていたのです。
手すりを掴む腕はありませんでした。
重心が前に移動していきます。
何もない空間へと、つんのめっていきます。
私はアブトロニック並に腹筋に力を入れ、身体を海老ぞりにし耐えようとしました。
その反動で肩に掛かっていたもう一つの鞄までが、肩から滑り落ちて肘に落ちバランスは最高に崩れました。
あーそういえば、アブトロニックは発売前でした。
私の腹筋はふにゃふにゃでした。
そっからは、マトリクスもビックリのスローなモーションでした。
私は重い鞄の反動で、足を踏み外した瞬間、クルッと前転しました。
空転?
宙返り?
まあとりあえず空中で前回りしました。
よく見るテレビなんかの階段落ちって、私の記憶ではみんな横にゴロゴロ落ちていきますよね?
私は何だか前回りなんですけど。
でんぐり返しの階段バージョンみたいな。
この時、私は、さすがに思いました。
あ
死ぬな・・あたし・・
って。
回転して階段を落下している時、何故か私は酷く冷静で、周りの人の驚愕する視線とかをめちゃめちゃ見ることが出来ました。
ぐるぐるぐるぐる回っている世界の中で。
あーおばさん、口開きすぎ。
ちょっとおじさん、目が飛び出しそう。
あ、OLのおねえさん、いろっぺーパンツ見えた。
みんなすげえビックリしてる。
つーか、あたりまえか。
私だったら声出ますな。
階段の上から人が前回りで落ちてきたら。
ありえない。
インディージョーンズの石かと思うね。
もうパンツが丸見えとか、そういう問題じゃない状態。
つーか、もう凄い勢いなんですよ。
自分でも時速100キロくらいで落ちてるのがよく分かるんです。
で、駅の階段って中段らへんにちょっと平らなゾーンが1メートルくらいあって、どんなに落ちてもそこで一回くらい止まるはずなんですけど、
どうやら私の場合、あまりに勢いがつきすぎていたようで、中段で勢いが落ちたものの、今度は横回りで落ちていきました。
もう自分ではどうすることも出来ない世界がぐるぐるぐるぐる。
で、気が付いたら、階段全部転げ落ちてました。
やっと終わった・・・・
どうやら死んでない・・・
と、安心したのもつかの間。
超ビックリすることに、目の前がまっくらなんです!
私は慌てて手を宙に彷徨わせました。
まっくら!
まっくら!
まっくら!
まっくら!
まっくら!
泣きそうです。
ズバリ、ワンピースが捲れてました。
捲れたってもんじゃありませんでした。
ちらっと太股がみえるとか、ちらっとパンツが見えるとかじゃないんです。
もう腹まで捲れて、へそまで見えてる状態。
パンツなんて上のゴムまで見えてます。
でもってワンピースの裾は頭まで被さり、私の視線は遮られてました。
全くの頭隠して尻隠さず。まんまです。
チラリズムのチの字もありません。
その姿は、想像するに、かなり悲惨でした。
度重なる前転のせいで、ミュールはどっかにいき裸足。
鞄もどっかで手を放してしまいレポートは階段に舞い散った状態。
腹まで捲れたワンピースほっかむりの少女。
しかも、この時履いてたパンツ・・・。
すげえ安全パンツ。
いや、ちっちゃいパンツもどうかと思うけど、すっごいデカパンツなんです。
もう、魔よけみたいな。
それがもう100%見え見え状態。
駅員も含め駅の時間が止まってました。
哀れで・・・
哀れすぎて・・・
黙祷のような時間が過ぎていきます。
そんなことも分からず、私は一人必死でした。
私は慌てて起きあがりました。
ワンピースを慌てて直しました。
そうしてビビリました。
驚くほどの視線。
というか、この駅にいる人、多分みんな私を見てるって自信がありました。
自意識過剰でしょうか?
私は正気を取り戻し、慌てて身辺を見回しました。
まず、靴がありません。
は・・・裸足!!!
それから大事な鞄がありません。
両手で抱えてた鞄がなく、肩にかけてた鞄だけが腕に絡まってます。
つーか、回転したせいか、おかしいくらい絡まってます。
私は何だか夢の中に居るような気持ちです。
一体・・・自分に何が・・・・?
人間、推し量る以上のことが起きると途方に暮れるようです。
注目を集めるわけです。
すると、一人のOLさんが近寄って来て、私の前にミュールを出してくれました。
あ・・靴・・・。
私は慌ててお礼を言って靴を履きました。
すると今度はサラリーマンふうの男の人が来て、本を渡してくれました。
あ・・・
『愛を司る脳 性を司る脳』・・
イケメンのホストふうの人も本を三冊持ってきてくれた。
あ・・・
『唯脳学』『脳と心のバイオフィジックス』『右脳は天才 それとも野獣』・・
ダンディーな岡田真澄ふうのおじさんも
あ・・
『人は脳なり』『原始脳ルネッサンス』・・
あーなんだか弁解したい。
弁解したい。
言い訳したい。
看護学校の課題であると、いちから全部説明したい。
どう思った?
どう思った?
突然前転で転げ落ちてきた女から、脳の専門書がバラバラ出てきたらどうですか?
どうですかぁぁぁぁぁぁぁぁ!?
私は真っ赤っかになりながら、本を鞄に詰め込みました。
ああ、穴があったら入りたい!!!
したら、今度は男子高校生が何枚かの切り抜きを差し出してきました。
あ・・
切り抜いた小脳・・・
あ、海馬も・・・
あのね・・これは趣味じゃないんだよ・・・
学校の課題でね・・・
ああ・・言い訳さして・・・
優しいたくさんの人たちが、階段に散らばった書物や切り抜きや怪しげなレポートを集めて持ってきてくれました。
同情的でそれでいてどこか・・・・こう・・・いわくありげな視線で。
研究なんです・・研究なんです・・・看護学生なんです・・・泣
ああ、消えてしまいたい。
ドロロンと・・・。
駅員さんが
『大丈夫ですか?』
と、声をかけてきます。
私はレポートをとりあえず、鞄にねじ込みながら、精一杯の笑顔で
『大丈夫』です。
そう言おうとした時、
駅員の後ろを、右斜めを45度を、ふんわりと流れていくレポート1枚が目に入りました。
『んぐぅぅぅーーーー!』
だったかな。
私は動揺していたのです。
だから駅員さんの
『大丈夫ですか?』
に、変な奇声で答えてしまいました。
そのとき、その瞬間、徹夜続きの私にとって、レポート一枚といえども、命より大切でした。
そういう諸々の諸事情を事細かに、この惨劇を見た人に説明したいです。
階段を前転で落ちてきた女のデカパンツやへそ、怪しげな脳関係の書物と脳のグロテスクな切り抜き、品性の欠片もない奇声。
それだけが、心に残っては困るのです。
私は看護学生で、これは研究のレポートで、学校の課題で、私は徹夜続きで、でもお洒落はきちんとしようと志して、たまたまパンツだけヘボくて、でも真面目に真面目に・・・・・。
真面目に・・・。
真面目に・・・。
ああ、穴があったら入りたい。
それからしばらくこの駅には『階段注意』という張り紙がされていました。
それを見て、見知らぬ会社員が『そーそーこれ、この前の朝さー』
聞きたくありません聞きたくありません。
懐かしい思い出。
それにしても、私ほどパンツの見えてる人もいないのに、なんでいつもヘボいパンツばっか履いてるんだろう、と只今パンツのタンス整理中。
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